木 村 尚 樹
fine photographic arts
Artist Statement
“「美しい」それは、本能である“。
それを想う時、私は「凪」に出逢うことで、心象風景の中に質感“クオリア”を見出し
そこにある「ゆらぎ」を固有の美として獲得する。
「凪」それは、“ゆらぎ”の映像的断片(連続性の破片)であり、時間を超え空間に佇む「ゆらぎ」としてのアトリビュートである。
“cogito ergo sum(我思う故に、我あり)” そして、ただ想う。
人は何かを想う時、そこに何らかの質感として「ゆらぎ」を同時に体感していることになる。
その度に”存在”の肯定(認識)をみるのであって、”安らぎ”(存在しうる)を感じるのである。私の試みは、”ゆらぎ”の心地よさの一つの答えを写真という手法で表現することにある。そしてそれは、美意識の「再体験」であり、郷愁やある種の高揚感を伴う”クオリア”として体感されるであろう。
本能が触れる「ゆらぎ」 が共感として伝播し、芸術の記号として存在するときに、美術 として意図されたものは、「限界芸術」の設えによって説明される。これはプラグマティズムの流れを汲む概念であり、戦後の日本で紡がれた。
趣と美への”あしらい”は、人間の根源的な欲求であり、唯一個人の本能的体感に帰属して来た“蟠り(わだかまり)”であって、無意識の芸術を生んできた。その質感としての「ゆらぎ≒凪」を切り取る写真の刹那が それを成立させる時、それは写真表現としての美術作品となり得る。
限界芸術へ昇華する以前の派生要素として芸術表現の起源が「本能的≒根源的」とするならば, 限界芸術の根源要素であって、その“際“に揺れ動き、浮遊さながら存在する概念は、また別な--新たなる地平を見つめるのである。それは”限界写真美術”であって、限界芸術の境界線上に零≒0の如く極僅かに揺らぐ概念‐”零式”‐として、我が作風の中心に据えられる。
全ての作品には、モノクロームの理わりを与えた。
色を封印することで、現実を抽象化に導き、“想い”の幅を求めた。
そうして光と影の無限の階調が、永遠を想起させるパラダイムへと移行して行く。
そして「陰翳礼賛」を体現できるのなら本望である。
写真表現に於けるその取り組みは、光と陰が織りなす”美”という古典回帰であり、原点に立ち返ることである。
人の営みの中で感じることのできる、現実の破片に想いを馳せることで、
写真を「美しい」と云いたいと想う。